2012年10月11日木曜日

認知症について


最近、認知症の方達とふれあう機会があったので、そのときの話を。
今まで認知症を知らなかったので、思った通りに書きます。まだまだ勘違いしているとことがあると思うので、指摘していただけるとありがたいです。

2012年10月10日水曜日

募金の効果


ひょんな事から、街頭で募金活動をすることになりました。赤い羽根募金という、よく見かけるやつです。
今回はその時に思った事を、いくつか。

2012年10月6日土曜日

知識は人によってニーズが違う。


昨日は、TV東京の番組で、北野武と文科省でゆとり教育を進めた役人の対談をやっていたので観た。(番組名は忘れた)

ゆとり教育のおかげで世界の中で成績は下がり、大学で分数の授業が必要になっている、という具合にその弊害を紹介していた。

2012年8月27日月曜日

無題じゃ


何かふと思うことが日常で多々ある。
なるべく書き留めたいから、メモ帳に書いたりする。原稿用紙も持ち歩いて、ひまな時はカフェでもうちっと長くつらつらと書いたりする。

今までは、書かなきゃ、とかアウトプットしなきゃ、とか何か生産的な人間になろうという衝動に駆られていたが、最近は落ち着いてきた。
ブログに書こうとか、いやノートを一冊持って、それに全部書こうとか、いやでもネットに公開したい、とか、いや自分一人で楽しむべきだ、とか本当に色々迷っていた。
でも、ブログで書きたいときもあれば、アナログにノートに書く方が良いときもある。
個人的だが、ブログの方が書くのは難しく感じる。直しをしやすいのは、原稿用紙に書いた時。ブログだと、自分でもどう書いていいか分からないときは、筆がすすまない。

という訳、今は、ブログに書きたかったら、こんな個人的なことでもブログに書くし、ノートにも書いていたりするのである。

そうすると、なんか力が抜けて、文章書くのが面白くなってきた、よ。

2012年8月26日日曜日

避暑日記


最近思ったことを一つ。それは、川と家について。

川遊びに行った。埼玉の秩父の方まで。
あーこんな川が家の近くあったら、毎日川遊びが出来て幸せだろうな、と思った。
うちの近くにも石神井川という川がある。
しかし、それは都市の川にお決まりの10数メートルのコンクリートで囲まれた、自然の跡形もない。
聞けば、両側に桜並木があったらしいが、片方は護岸工事のついでに切り、道路になってしまったらしい。
少し前なら、練馬区でも川遊びが出来た。

この川の近くは、コバエや虫の数が異常に多い。これは個人的な推量だが、木々が少なく鳥などの捕食者が住みづらいようなアンバランスな環境が原因ではないかと考えている。

なぜそんな自然豊かな河川をコンクリートで囲まなくてはならなかったのかと、怒りたくなる。
だが、当然その時代にはその時代なりの理由があったのだろう。コンクリートの道路を日本中に敷き詰め物流レベルを上げる、列島改造論が当時の中心政策だった。
もう一つは、川が溢れてしまう災害を減らすためだった。
要は川が溢れたら家にダメになってしまう訳だ。だから、これも個人的な感覚だけど、川近くの家は護岸後に建つから少し周りよりも新しい気がする。
でも、そこまで自然破壊をして川近くに住まなきゃいけないような都市は間違っていると感じる。住まない場所は住めない。これは、最近多発するゲリラ豪雨による水害や先の大震災でも分かったことだと思う。やはり、人が住んではいけない場所はある。どんなテクノロジーをもってしても、その環境を克服することはできない。
だから、河川の近くもほんとは人が住んだりする場所ではないと思う。
そう言うと、今住んでる人がどうすんだとか、経済うんぬん、とか言い出す人がいそうだけど、だからダメという訳ではなくて、これからちょっとづつ考えましょうよと言いたい。

ま、これからの公共工事や都市計画はもっと自然環境に配慮したものが求められる。というありきたりな結論。(本当は、そんなことを市民や役所と一緒に考える場所をつくりたいのだけれども)

2012年6月29日金曜日

イマドキJ-POPに思うコト

イマドキJ-POPとは、今流行っている邦楽の曲の中でも、露骨に愛、恋人、運命への気持ちだったり願望をストレートに表現した曲を意味しています。
例えば、西野カナ。彼女の歌詞はこんな感じです。
「Best Friend」という曲(途中まで)




著作権の関係もあるので、goo音楽の歌詞よりキャプチャ。

他にもGReeeeNとか、
「キセキ」

興味あったらyoutubeでも観てください。

これが受け入れる人は、この流行りぐあいに対してはそんなに多くないと思うます。イマドキの若年層に特に人気であり、その認知度は人口に膾炙してる訳ではないと思われます。

今日もテレビを付けたらHey!Hey!Hey!という音楽番組がやっていたので、何気に観ていました。
まあ、そこでもさっき上げたようなイマドキJ-POPがやっていたので、その時ふと思う事があったので、ここに記したいと思います。


アイデアの発火点となったのは、この本からです。
文才がなくても書ける小説講座 (ソフトバンク新書)



この本のテーマである、いかに文章を書くかという事は、関係ないのですが、この鈴木さんが小説という作品の意味について解いたことが思い起こされました。
ここに引きます。


”私たちの心を、どこか深い所へと落とし込んでいくもの。
 小説とはそのようなものです。しかし、何ごとかを押しつけられた瞬間、私たちは心こわばらせてしまいます。そのことを小説は知っているのです。つまり、隠すことで、探すように仕向ける。決して無理強いはしない。これが小説の話法です。
  私たちの心を、どこか深い所へと落とし込んでいくもの。
  そして、私たちを黙らせるもの。”


”哲学も科学も経済学も、何ごとかを明らかにする事を旨とします。ところが、文学は違います。すでに述べたように、文学は隠すことを旨とします。
 例えば、伏線は文字どおり「伏せて待つ」技法でした。読者に説明したり、読者に説明したり、押しつけたりすることを嫌い、探してもらいたくてじっと伏せている。仮に探してもらえなくても、恨まない、つべこべ言わない。まさしく文学の作法であったわけです。
ところで、そんな凝ったやり方をしてまで小説が読者に伝えたいものとは何でしょう。ずいぶん間だるい方法を採用していますが、これは伝えたい欲求の裏返しであるはずです。説明すればそっぽを向き。押しつければ引いてしまうのが読者です。それを知っているから、小説はこんな手法を取るのです。そうしなければ伝えられないのです。何を?真実をです。”

”じつは事実や現実は、「真実」という言葉からは一番遠い言葉です。(中略)現実の中にどっぷりつかっていたのでは、人間の生は矮小化します。だから私たちは嘘の物語をこしらえて、真実という名の高みを目指すのです。「途中下車」(※例として挙げた宮本輝の作品)の中に真実を見る思いがするのは、人間のあらまほしき姿に触れる一瞬を、この作品が私たちに提供するからなのです。”


ここでの話は文学に関してですが、これは他の芸術作品にも拡張できると思われます。
つまり、真実は現実に必ずしも存在しているとは限らない、だからこそ、その現実に存在しない真実を描いたのが芸術作品や文学作品です。そして、名作と呼ばれる、小説・美術・音楽などの作品から、私たちが受け取るメッセージ(真実)は、作品に直接的に表現されているものではありません。それは暗示されたり、比喩で表されたり、何かに表象されてるに過ぎないのです。


だって、何かの恋愛小説の最後の一行に、
「結局、愛こそすべてなのだ」
なんて格言めいた事が書いてあったら、誰だって萎えてしまいますよね。
言わないからこそ、つまり、わざとぽっこりと空けた所にこそ、読者は惹き付けられ想像力を掻き立てるのです。そこで、みずから何かしらの帰結なり教訓を読者の中から、呼び起こすからこそ、「共感」が生まれ作品が受け入れられるのではしょうか。

つまり、彼らの曲は僕にとっては、「世界平和がいいね」「戦争なくそうよ」といった陳腐な言葉の羅列にしか聞こえなくて、そして、「そうは言ってもホントウの事だろう」といった妙に拒否できないようなイヤな押しつけがましい感じを受けてしまうのです。

平和を愛するがゆえに起きてしまう戦争・紛争。誰しも望んでいるわけではないのに進む環境破壊など、その悲しき自己矛盾の存在、それにスポットをうまくあてる事ができるのが名作とよばれるはずであります。

2012年5月9日水曜日

二極化する

僕が中学校のころからおかしいなあと感じていた動きが、この二極化。 当時、先生が生徒の成績分布表を配っていて、そのグラフが例年、典型的に二極化を示していたのを覚えている。
先生も、このような成績のばらつきは最近の新しい傾向で困っていると言っていた。
 今までの日本(と限定してしまっていいいのか)では、一億総中流の名にふさわしく多数が中間的な、平均的な数値であった。それは、成績にしろ、収入しろ、社会的なステータスはそのような分布を示していた。そのようなグラフは真ん中がぼこっと膨れ、左右になだらかに流れていくグラフであった。
今は違う。
 グラフは左右にぼこっと二つのグラフが出来上がり、その平均となる中間の値は谷になっていて誰もいない。 日本は、「できる人」と「できない人」に二分されてしまったのだ。 収入もそうだ。平均は600万ぐらいだと言われるが、それは右の山にいる一部の金持ちのおかげであって、多くは定職のない中で、低い収入に苦しんでいる。 
この動きは、ちょっと見方を変えればEUにもいえる。
 例えば、フランスの選挙では、20%近い支持率をかなり右に偏った政党がえた。ギリシャもしかり。(この動きはまた考察したいが) 一方で、福祉国家のために左翼も台頭してくる。政治の指示も、右と左の山に分かれてしまっている。 

そう考えると、いろんな問題が見えてくる。テレビや新聞といったマスメディアは、大多数の中に、最大公約を見いだし、大衆に伝わる・ニーズのある情報を発信しなくてはならないが、このように、大衆層も一枚岩でなく、分断されてくると、いわゆる〇〇離れが始まる。

ただ、果たして、成績や収入といった社会的クラスがそういった文化的な嗜好まで影響を与えるかは分からない。 勉強のできる金持ちだって、頭の良くない貧乏人だってユニクロの服を着る。そういった意味では、消費と社会的資本のかかわり合いが複雑になってきている。 
ただ、少なくとも多くの場面で、起きているこのような二極化運動は、ひとつにはなれない日本を示している。
 このテーマでまた考えていきたい。