物事には外部環境の変化や圧力への耐久性というものがある。
転び方を知らない人は、転ぶと怪我をする。怪我をしない人は、転ばない人ではなく、うまく転ぶ人であると思う。その点では、耐久性とは、何かの影響をゼロにすることではなく、最小に済ませることではないか、と思う。
受け身というのを、柔道でならった。投げられたら、身体の力を抜いて、投げられるのに身を任せ、うまく着地に備えなくてはならない。力が入った状態で、ぶつかると衝撃が強く、その力を分散できない。逆に、投げられそうになっても、とにかく投げられまいと、力んで相手を掴んでいれば、技はかかりづらくなる。でも、その状態で、本当に、投げられて、地面に叩き付けられると怪我の可能性は、述べたように、上がる。
丈夫な人はあばらが折れるという。
大けがを負うようなところをあばらの一本や二本で済ませられるのだ。もしくは、こう言える。大けがを負う状況をあばらを折ることで回避した、と。
よくない癖で、大きな話に持っていきたくなるのだが、日本の原発も同じことが言えるのではないでしょうか。
絶対安全、絶対安全と、事故の可能性そのものをゼロに限りなく近く認識していたのではないか。危機的な状況になっても、強がった判断で被害を増大させ、人災と呼ばれてしまった。早めに、広範囲の避難区域を設定すれば、被害はもう少し抑えることができたのではないか、そんな意見もある。という訳でも、日本はあばらを折ることができずに、大怪我をしたのではないだろうか。
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