2012年10月6日土曜日

知識は人によってニーズが違う。


昨日は、TV東京の番組で、北野武と文科省でゆとり教育を進めた役人の対談をやっていたので観た。(番組名は忘れた)

ゆとり教育のおかげで世界の中で成績は下がり、大学で分数の授業が必要になっている、という具合にその弊害を紹介していた。


たけしは、ゆとり教育に賛成していた。曰く、その理念は正しいんだけど、金と人が足りなさすぎた、という。これには、文科省の方もかなり感銘を受けていた様子。
僕自身も、学校の教職の授業で、この方針を知ったときは、好意的になれました。
時代はバブル崩壊で、国は沈みはじめ、世界はグローバル化一直線の20世紀の終わりごろ。これからの時代は、詰め込み教育ではなく、機械に負けない豊かな発想力を鍛えることだ、というのは間違った考えではなかったと思います。多様化する世の中で、個々が自由に創造する力を養う、でもそれを具体的に実践するのは難しかったのでしょう。
例えば、今まで、クラスで同じことをやっていたからこそ、1人の先生でみることができたのが、この子は○○、この子は××という具合にしたら、その分教える先生や時間は必要になるはず。でも、ゆとり教育は、教える側の布陣はほとんど同じでカリキュラムを変えただけだった。そりゃ、現場の人たちも困っちゃうな、って事。

でも、ちょっと思ったことがあった。
それは、創造力って全員が必要なことかって事。
この理念で、思い浮かぶ人は、スティーブジョブス。彼は21世紀にふさわしい、カリスマ性とクリエイティブ性を持ち合わせていた。
でも、思うに、アップルの全員がジョブスのような人間だったら、仕事が成り立たなかっただろう。彼の下には、彼に文句一つ言わない、素直に言われたことをこなす人がたくさん居たのだろうと思う。だから、学校でも、全員が創造的になるのは、社会成員の養成として少し不味いだろう。人によっては詰め込みが必要な人もいるし、職人のように同じことを黙々とこなす事が向いている人もいるだろう。だから、多様性とは自由な発想も一つの選択肢に入るような、自由な幅があるはずだ。
世の中には、「さあ、思うようにやってごらん」と言われて、「いや、いいよ…」という人が少なからずいる。だから、そういう人の為の道も必要だとおもう。

そうはいっても、これからは、小学校から塾に通い詰め、東大目指して、一心不乱に知識を詰め込む親子はいなくならないだろうし、そういう意味では、個々のニーズは満たされるだろうなって事。(これをニーズと呼ぶかは分からないけど、学校教育の目標と違う教育ニーズを目指す人は出てくる、という例として…)

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