2012年10月16日火曜日
ビジネスについて、ユニクロのトップ柳井正さんのインタビューを読む
ユニクロを展開しているファーストリテイリング社の社長、柳井正さんが日経ビジネス(10月8日号)でインタビューにでてました。
話題は、中国についてです。曰く、このまま中国には残るつもり、そして日本の政治家しゃきっとせい、ということですが、僕が気になったのは後半のグローバル教育について。
"…スウェーデン人が英国やフランスで仕事をすることは一般の人にとっても普通のことなんですよね。一方で、日本人の場合はそういう意識があまりない。
それでも、若い子には、「日本語だけで商売をしていると日本でも商売が出来なくなる」と言っています。海外からもどんどん企業が来るわけですよ。我々もどんどん出ていく。まさにグローバル競争が始まっているわけです。その中でリーダーシップを発揮しようと思ったら、英語ができなければ話にならない。日本で日本語ができないのと同じ状況になりますよ。(中略)
これは彼らのために言っているんです。最悪なのは、外国企業が日本に来て企業を買収して、外国人の経営幹部ばかりになった時です。そういう世界がもうすぐ来ますよ。その時にあなたは今のままでいいんですよ、ということです。
そもそも日本人はもっと頑張らないといけない。韓国も中国もシンガポールでも、アジアの人はみんな英語で話しています。日本だけ日本語で話していてどうするのと言いたいですね。”
では、ここで唐突ではあるが、たまたま読んでいた「街場の文体論」(内田樹)に外国語の学習について書いてあったので、これも引用しようと思います。
言語は道具でない、という見出し。もうここで、柳井さんと内田センセイでは考えが違うようです。
”(文科省の計画文に対して)「英語ができないと食えないぞ」と言っている。リアルなのかもしれないけれど、そこには外国語を学ぶ「喜び」や「感動」について語った言葉が一つもありません。それが自分を繋縛している「種族の思想」から抜け出す知的なブレークスルーの機会だということも述べられていない。
<中略>
言語は道具ではありません。金をかき集めたり、自分の地位や威信を押し上げたり、文化資本で身を飾ったりするための手段ではありません。そのような欲望の主体そのものを解体する、力動的で生成的な営みなんです。”
考えが違う、というよりは、この二つの意見は平行線をいっているようにも思えますね。
内田センセイは、今の柳井さんや日本が進める英語(+グローバル)教育を「リアル」な選択と認めています。でも、そうじゃないと。言語を道具に使うな、言語で金儲けはできない、と。
一つには、英語を覚える動機が自己欲求に依るところがダメなのでしょう。抜粋したように、この「グローバル教育」では、英語を話せば自分が儲かる、英語を話せば日本が大きくなる、といった自己意識の肥大が目的でしかない。でも、内田センセイからすれば、外国語を学ぶ、ひいては異国の文化に触れることは、「対話する」ことであり「他者」と触れ合うことであるはずだと。
でも、柳井さんのような人からは、そっちこそ「ファンタジー」じゃないかと言われそうです。では、内田センセイは、ビジネスを否定してより人間性なる思想的なものを重視しているのでしょうか。そうではないでしょう。内田センセイと柳井さんでは、ビジネスにたいする認識が違うと思います。
柳井さんのビジネスは、その主語は1人です。
日本がどうなろうと、そこで英語ができれば、少なくとも働ける。海外に逃げれば、英語ができて、働ける。
日本が外国企業によって乗っ取られる、そして英語が使われる、これは考えてみればおかしいと思うのですが、まずある国に進出した企業が現地の言語を一切無視するということはあるのでしょうか。
まあ、彼らが必要とするのは、通訳です。英語ができるなら、その仕事にはつける。そして、外資による経営と日本人による労働という社内統治では、管理者である経営側にまわれる。でも、残った多くの日本人は労働側です。家族や友人、そして共同体が「食っていける」かという問題は彼には無関係に思える。英語ができる、できないという格差を考える気にはならない。
一方、内田センセイの作品でビジネスの主語は複数系だと感じます。
彼は知性を公共のものとして捉えています。外国語を学ぶことは、結局は自己の徳を高め、周りの集団に貢献するものとなる。
日本に外資企業がどんどんと進出してくるのなら、そこで僕たちの「食い扶持」や「文化」を失わないように、みんなで協力しよう。(そして商売しよう)。そんな捉え方が思い浮かびます。
僕は…、少なくともグローバル人材なるものに名乗りを上げるつもりはありません。だって、英語を勉強して、今更何をするのでしょうか。世界の、日本より賃金水準の安い人材マーケットに登録したって、日本の何倍ものライバルがいますよ。今、あらゆる仕事が日本語で完結しているのではないでしょうか。
いや、そうやって今はいいが、いつかはその仕事も外国に奪われるぞ、人は言うかもしれません。
でも、結局、そういう時にやっていけるかは、小手先の言語でなく、一つの言語だけでも、しっかりとした人間であるかどうかだと思いますね。
かなりイメージに頼った書き方になりましたが、僕はそんな風に思います。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿