イマドキJ-POPとは、今流行っている邦楽の曲の中でも、露骨に愛、恋人、運命への気持ちだったり願望をストレートに表現した曲を意味しています。
例えば、西野カナ。彼女の歌詞はこんな感じです。
「Best Friend」という曲(途中まで)
著作権の関係もあるので、goo音楽の歌詞よりキャプチャ。
他にもGReeeeNとか、
「キセキ」
興味あったらyoutubeでも観てください。
これが受け入れる人は、この流行りぐあいに対してはそんなに多くないと思うます。イマドキの若年層に特に人気であり、その認知度は人口に膾炙してる訳ではないと思われます。
今日もテレビを付けたらHey!Hey!Hey!という音楽番組がやっていたので、何気に観ていました。
まあ、そこでもさっき上げたようなイマドキJ-POPがやっていたので、その時ふと思う事があったので、ここに記したいと思います。
アイデアの発火点となったのは、この本からです。
この本のテーマである、いかに文章を書くかという事は、関係ないのですが、この鈴木さんが小説という作品の意味について解いたことが思い起こされました。
ここに引きます。
”私たちの心を、どこか深い所へと落とし込んでいくもの。
小説とはそのようなものです。しかし、何ごとかを押しつけられた瞬間、私たちは心こわばらせてしまいます。そのことを小説は知っているのです。つまり、隠すことで、探すように仕向ける。決して無理強いはしない。これが小説の話法です。
私たちの心を、どこか深い所へと落とし込んでいくもの。
そして、私たちを黙らせるもの。”
”哲学も科学も経済学も、何ごとかを明らかにする事を旨とします。ところが、文学は違います。すでに述べたように、文学は隠すことを旨とします。
例えば、伏線は文字どおり「伏せて待つ」技法でした。読者に説明したり、読者に説明したり、押しつけたりすることを嫌い、探してもらいたくてじっと伏せている。仮に探してもらえなくても、恨まない、つべこべ言わない。まさしく文学の作法であったわけです。
ところで、そんな凝ったやり方をしてまで小説が読者に伝えたいものとは何でしょう。ずいぶん間だるい方法を採用していますが、これは伝えたい欲求の裏返しであるはずです。説明すればそっぽを向き。押しつければ引いてしまうのが読者です。それを知っているから、小説はこんな手法を取るのです。そうしなければ伝えられないのです。何を?真実をです。”
”じつは事実や現実は、「真実」という言葉からは一番遠い言葉です。(中略)現実の中にどっぷりつかっていたのでは、人間の生は矮小化します。だから私たちは嘘の物語をこしらえて、真実という名の高みを目指すのです。「途中下車」(※例として挙げた宮本輝の作品)の中に真実を見る思いがするのは、人間のあらまほしき姿に触れる一瞬を、この作品が私たちに提供するからなのです。”
ここでの話は文学に関してですが、これは他の芸術作品にも拡張できると思われます。
つまり、真実は現実に必ずしも存在しているとは限らない、だからこそ、その現実に存在しない真実を描いたのが芸術作品や文学作品です。そして、名作と呼ばれる、小説・美術・音楽などの作品から、私たちが受け取るメッセージ(真実)は、作品に直接的に表現されているものではありません。それは暗示されたり、比喩で表されたり、何かに表象されてるに過ぎないのです。
だって、何かの恋愛小説の最後の一行に、
「結局、愛こそすべてなのだ」
なんて格言めいた事が書いてあったら、誰だって萎えてしまいますよね。
言わないからこそ、つまり、わざとぽっこりと空けた所にこそ、読者は惹き付けられ想像力を掻き立てるのです。そこで、みずから何かしらの帰結なり教訓を読者の中から、呼び起こすからこそ、「共感」が生まれ作品が受け入れられるのではしょうか。
つまり、彼らの曲は僕にとっては、「世界平和がいいね」「戦争なくそうよ」といった陳腐な言葉の羅列にしか聞こえなくて、そして、「そうは言ってもホントウの事だろう」といった妙に拒否できないようなイヤな押しつけがましい感じを受けてしまうのです。
平和を愛するがゆえに起きてしまう戦争・紛争。誰しも望んでいるわけではないのに進む環境破壊など、その悲しき自己矛盾の存在、それにスポットをうまくあてる事ができるのが名作とよばれるはずであります。